「主を信じるならば、行動で示せ」(「愛、自信、そして勇気」より)の真意

(『ヘラトリ・トピックス』を読んでいて痛いなあと思ったエントリーを転載いたします。)
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さて先日なんと、急遽ヘラ鳥さんを囲むちょっとした座談会があり、そこでのお話をざっとまとめましたので感謝スペシャル版としてご披露させていただきます。誰も言ってくれなかった言葉が心地よく、私達の信仰心を深めさせていただくに十分すぎるほどのタイムリーなお話でしたので、ぜひ多くの方々と共有していただき、本年、『創造の法』とヘラ鳥さんと共に大きく羽ばたく一年といたしましょう!編集部


演題 『信仰について深く考えてみる』 都内某所

1.「主を信じるならば、行動で示せ」(「愛、自信、そして勇気」より)の真意c0190267_1462827.jpg





c0190267_1434854.jpg今、精舎で開示されている「松下幸之助の霊言(第二部)」の中で、幸之助霊は、次のように仰っています。「あなた方の教祖様は、「幸福の科学を世界宗教に必ずする」と仰っているが、弟子達は本心では、それを信じていないんだろう?だから救世運動が、発展しないんだよ。足りないのは、本当は能力ではなくて、情熱だ。「保身」が出てくるのは、本当は信じていないからです。」とおっしゃいました。

この言葉の重みは、決して忘れてはいけないし、自分をごまかしてもいけないと思います。「信じていないから、勇気が出ない」のだし、「色々と細かなこの世的理由をつけては、実は逃げているのは、これが原因なのだ」ということを、忘れてはいけない。
「また、ムチャをおっしゃっている」とか、「そうは言っても現実には…」という思いが、主に対してよぎりそうになったときは、私はいつも、次の仏言を思い出すようにしています。「小さな小さな、この世的な常識や知識、これまでの数十年の経験でもって、八次元や九次元、あるいはそれ以上の世界から来る、光と真理を批判することは、やめて下さい。あなた方は、そういう立場にないのです。」(「愛される人になるためには」)この仏言に抗してまで、それは抱かなければならない思いなのかどうか、その前にまず、自分がやらなければならないことが、本当にないのかどうか、よく自省してみる必要があります。

主の真意は、数年の年月を経て、初めてわかることが、沢山あります。そういう経験を山のようにしてきた身として、言えることが一つあります。「主のご教示に、本心が(潜在意識が)納得していない」と思われる経験は、誰にもあると思うのですね。(五年、十年と修行をしてくれば、「自分の潜在意識が納得していない感覚」というのは、本当はわかっているのだろうと思います。そのことは、ごまかしてはいけないと思うのですね。)

で、その時に大切なことは、「主の方針に対して、本音と建前を使い分けて、事実上、抗する」ことではなく、「自分の何が足りなくて、すっと心が合わないのか、その原因を正直に探求して、できるだけ速く埋めていくのだ」という、まずはそういう念い(心のベクトルの方向)をだしていくことが、どうしても大切な、信仰者のあるべき姿だと思うのです。「抵抗したり、先送りしよう」という方向(ベクトル)に、心を野放しにしてしまうのではなく、その逆に、常に常に「自分の方を変える」努力(足りないのは知識なのか経験なのか、それとも信仰者としての「心得違い」なのか)へ、心を持っていけるかどうか、ここでこそ、信仰が試されるのだと思います。

そして、それを何度か繰り返したら、次は、「将来の自分の心に求められる姿(変化)は、一体何なのか」ということを、頑張って先取りするべきだ、と思うのですね。ちょっと難しい言い方ですが、今の自分は取り合えず大丈夫であるとしても、将来救世運動がもう一段進展したときに、「今の自分の考え方のどの部分が、そのときイノベーションを求められることになるのか」、それをいつもいつも、自分に問いかけていなければいけない。これこそが、日々の信仰生活(瞑想行)や、精舎修行の中で実践すべきことの、中核でなければいけないと思うのです。

そして、それができるためには、実は、この救世運動の将来像(=「どうあるべきか」=「主エル・カンターレの使命の大きさ」)に対して、自分が100%同意していなければ、自発的にそれをすることは、できないんだろうと思うのです。

c0190267_1421950.jpgだから、結局、「未来が成り行き任せになっている」ということは、実は、「エル・カンターレ信仰が立っていない」ということなんです。厳しい言い方で申し訳ないんですが、これが真実です。
そしてね、まあ、ここまで努力したとしてもね、残念ながら凡夫の身には、それでも分からないときがあります。そのときは、もう「最後は、勇気!」(『常勝の法』)で、飛び込まなければならない。これは、何を意味しているかというと、いざというときは、「主の捨石になる」(「あなたがたの使命」という御法話より)覚悟を、常日頃からしている、ということです。

結局、この信仰心の足りなさが、すべてのボトルネックになっていると思うのです。「この世的生き易さ」、それは例えば、「個人としても教団としても、収入の道が確保されて、生活が保障される」ことであるとか、「無意識のうちに保身(自らの立場を守る)を優先してしまっていて、限界への挑戦を避け続けている卑怯な心」であるとか、これらはすべて、信仰心の低さから来ているものだと思うのです。

c0190267_1395734.jpgだから、「君よ、涙の谷を渡れ」にありました、「はっきり言うと、あなた方がこの世で価値があると思っているものは、霊的な目から見れば、すべてがらくたであり、無用のものです。いずれ地上を去るときには、捨てていかねばならないのです」という教えを実践できないのは、誠に厳しくて申し訳ないんだけれども、「信仰が執着に負けている」からです。これは、誰かがやっぱり、言わなければいけない。

執着の虚しさは、その執着しているものを失ってみれば、わかります。それを最後まで握りしめていた者は、この世の終わりで、取り返しのつかないほどの後悔に苛まれることとなります。だから、それまでの暫しの間、「仏の慈悲で“選択の自由”が与えられているのだ」ということを忘れてはならない。しかも、本仏の眼差しの下、縁起の理法を見抜き切った「比類なき正確さによって」(「あなたがたの使命」より)、「最高の修行環境」と「必然の修行課題」が与えられているのだということを、決して忘れてはいけない。

だから夢々、「なぜ私がこれをしなければならないのか」とか、「させられている」とか、思ってはいけないんですよ。救世運動とは、「させられている」ものではなく、慈悲で、「させて頂いている」ものなんです。

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by happyscience | 2010-03-05 01:36

「この世とあの世を貫く幸福」と「仏国土ユートピア」の実現を!


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